一方的に立場が強い/弱い関係と個別の11人の関係者
高校3年生だった1978年、世界名作劇場『ペリーヌ物語』の主人公・ペリーヌ役で声優デビュー。その後、砂岡事務所を経て青二プロダクションへ移籍。『ペリーヌ物語』放送終了後、2年間は声優業を行っていなかったが、1981年に『おはよう!スパンク』でキャット役を担当。これ以後、声優としての活動を活発に行うようになった。当初は清純派キャラクターを中心に演じていたが、徐々に気の強い役柄・男勝りな役柄も演じるようになり、1980年代後半頃には比率が逆転し、後者のイメージで定着。同世代では松井菜桜子、富沢美智恵、川村万梨阿らと共に、強気な演技を得意とする声優として名前が知られていくこととなった。1990年代以降、バラエティ番組や報道番組などにおけるナレーション業が増え、現在はこちらを主体とした活動を行っている。また、舞台に出演することもある。
尊敬する人物には同じく声優業で活躍する高島雅羅を挙げている。新人時代に共演した折、その穏やかな人柄と共に、現場における芝居の素晴らしさに魅了され、以後目標とする存在としていると語っている。度々共演する声優の古澤徹は幼稚園の同級生である。川田妙子とユニット『Windy's murmur』(ウィンディーズマーマー)を組んでいる。
開発当初はCD-ROMの技術を提供したソニー側がCD-ROMソフトのライセンスの権利を有していたが、当時のコンシューマ機はゲーム・ソフトをROMカセットで提供する事が主体であり、CD-ROMは付属的な立場のメディアとして認識されていた為、最初、任天堂はCD-ROMの権利を重視していなかった。1991年6月のシカゴでのコンシュマー・エレクトロニクス・ショーにおいて、ソニーとの契約を破棄してフィリップスと契約を結ぶというプレスリリースを発表、さらに1992年1月10日付けの日本経済新聞において、1年後にスーパーファミコンのCD-ROMアダプタを発売すると発表した。この任天堂の動きに対して、この時点でのソニーは(少なくとも表面的には)任天堂との互換路線の実現を目指しており、同日の同新聞において「スーパーファミコンのCD-ROMソフトと互換性のあるCD-ROMゲーム機であるプレイ・ステーションを同年後半に発売する」と発表しているが、当時会長であった大賀典雄は1992年6月24日のソニーの取締役会にてソニー単独でのゲーム事業を承認、1992年11月10日付けの日本経済新聞で互換機路線が再検討される事が伝わり、ソニーが独自に設計・開発を始めた事が知らされた。1993年初頭から正式に「PS-X」プロジェクトが立ち上がり、1993年11月16日にソニーの技術者と株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメントのコンピュータゲーム製作部門のスタッフら65人で構成される株式会社ソニー・コンピュータエンタテインメントが設立されて、1994年12月3日の「プレイステーション」の発売に至った。
栃木市立栃木西中学校で生徒会会長として活躍、栃木県立栃木女子高等学校、青山学院女子短期大学家政学科卒業。実家は栃木市にかつて存在した老舗旅館・鯉保(こいやす)(2005年8月31日廃業)。俳人松尾芭蕉を経済的にも支援した門弟杉山杉風の子孫にあたる。[1]1986年、東レ水着キャンペーンガールとしてデビュー。1987年にはこの年からスタートしたアサヒビールのキャンペーンガールにも就任。当時はボックスコーポレーションに所属していた。 1988年度下半期放送NHK連続テレビ小説『純ちゃんの応援歌』でヒロインを務めた。その後、TBSやフジテレビなどのトレンディードラマのヒロイン級の役柄を担当し一躍スターダムにのし上がる。1990年には火曜サスペンス劇場枠の2時間ドラマに異例とも言える3作品に主演(シリーズモノは別として)した。普通多くても1人2作品程度である。また1990年代、全盛期の山口智子出演ドラマは高視聴率が取れたため、「連ドラクイーン」や「高視聴率の女王」とも呼ばれた。